生物の雄・雌が決まる仕組みはどこまで解明されたか
− 性決定の分子遺伝学


神戸大学大学院 農学研究科 応用動物講座 分子形態学分野
星 信彦

生殖腺はその形態や機能に唯一『性』依存的差異が認められる組織であり,その発生過程には「性分化」という通常の組織では不要なステップが介在する.この点が生殖腺の分化を複雑にしている反面,研究対象としては極めて魅力的な素材である.生物は遺伝的多様性を獲得するために有性生殖という次世代に遺伝情報を受け継ぐシステムを構築した.いうなれば,種の保存のための基盤が『性の決定・分化』であり,生物の雄・雌が決まる仕組みは極めて重要な個体発生の分化過程あるいは生命活動と考えられる.精巣と卵巣とは何が違うのか.生殖腺に性差を与えるものは何か.

性の決定および分化機構の研究の歴史は,性染色体の存在および役割の発見,性ホルモンによる内・外性器の分化の確立,ならびに近年の分子生物学的手法を利用した性の逆転患者に対する分子遺伝学的解析との密接な関連により急速に解明されてきた.とくに,未分化性腺の精巣化がY染色体上に位置するSRY(sex determining region of Y chromosome)遺伝子により誘導されることが1990年に初めて明らかにされて以来,性の決定・分化機構は速やかに解明されるものと思われた.しかしながら,1つの遺伝子によって制御されるほど性の分化機構は簡単ではなく,その作用機序には様々な転写因子の関与および段階があり,その複雑さが再認識されている.とくにSRYの転移や欠失では説明のつかない性逆転の症例が報告されるにつれ,性決定に関与する他の遺伝子候補が次々に同定された.また,遺伝子ノックアウト法やトラップ法の導入によって人為的遺伝子変異の作製が可能となり,変異表現型から遺伝子の生体機能を究明することにより,多くの性分化関連遺伝子の発見が相次いでいる.しかしながら,精巣決定遺伝子SRYひとつをとってみても発見後19年が経過したものの未だ標的遺伝子がみつからず,最近では脊椎動物では2番目となるメダカの性決定遺伝子(DMY)が特定され(2002,Nature),更に最近ではアフリカツメガエルでDM-W遺伝子が同定された(2008, PNAS). その機能発現機構には他の多くの遺伝子の関与が考えられてきており,性の分化とその異常に関する基礎的あるいは臨床的問題はなかなか複雑である.むしろ漸く問題解決の糸口に到達したというのが現状であるといえるのかもしれない.とくに生殖系列の成立,生殖細胞の分化・維持に関する遺伝子支配については依然として模索状態にあり,また,臨床上においても性分化機構の面から原因を解明しえない症例に遭遇することは少なくない.

これまで我々は多数の性分化異常症例を経験し,その分子細胞遺伝学的解析からそれらには組織限定性の性染色体モザイクによる性染色体遺伝子量補償機構の破綻が関与している可能性を示してきた.また,近年,哺乳類を含む脊椎動物では,ゲノムDNAのメチル化の程度は各体細胞により異なり,しかも,ゲノムの転写調節領域のメチル化は染色体異常あるいは遺伝子サイレンス機構と関連していることが明らかになってきている.最近,我々はXY女性におけるSRY(精巣決定遺伝子)のヒストンアセチル化異常が原因で性逆転になった症例を経験した.また,遺伝子改変性転換SryTg-YposマウスとM33KO系B6マウスの交配から右性腺が卵巣に,左性腺が精巣に分化する系を作製することに成功した.現在,これらの系を用いて,性分化のしくみとその破綻機構の解明を行っているのでその研究の一端も紹介する.


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